充実した一日でした、「歩かんね太宰府」で「古代官道24kmを歩く【8時間30分・約24km】」!!(後半)

今回の記事も、先週日曜日の朝早くからの事になります。

「歩かんね太宰府」(←クリックでHPへ)という気軽に楽しむガイド付きまち歩きの集まりの、年の最後の恒例のコース、「古代官道を歩く」に参加してきたお話しの続きです。

鴻臚館跡展示館前からスタートして、古代官道に思いを巡らせつつ、ガイドの太宰府市文化財課の山村信榮さんの詳しく分かりやすい説明を聞きつつ歩いて進んで、赤坂→警固→薬院→平尾→高宮→大橋→春日と進んでいき、春日公園でランチを含めた休憩、集合場所への行きがけにコンビニで買って来たランチを頂きつつ、しばしの座っての休憩、そこまで疲れてはいなかったですけど、少しリフレッシュできました。

すみません、前回、春日公園に着く前に、大事な所があったのに欠落していたので追記しています、既に一回見られている方は、最後の方の部分(ここから追記、と表示しています)を改めて見て頂くと嬉しいです。

さぁ、後半の出発です!!

まずは春日公園の出がけと言うか、敷地内にあったこちら、「古代の道」という案内板を見ながらここからの経路の説明を聞いたりしつつ、歩き進みます、この案内板がある辺りが、この辺で初めて官道が発掘された場所だそうです。
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さらに進んで、春日高校手前、左手を見ての奥の陸橋のあたりが米軍基地だった頃にはメインストリートだったらしいです。
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ここから九州大学の筑紫キャンパスの敷地内へと入っていきます、もちろん、この中を官道が走っていました。

ここもかつては米軍基地だったらしく、その名残りで、かなり高いカナダメープルの並木が残っています、確かに、ちょっとアメリカを感じさせるかも。
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このキャンパス内をどんどん進んでいきます。
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キャンパス内でも瓦が出土していたりして、前回書いた見栄えのための官道沿いの瓦ぶきの建物に使ったのかな、という感じ。

このキャンパス内に、福岡平野のどん詰まりの丘があり、その丘の上に土塁を足して城壁が作られていたのではというお話しで、その城壁が50km、その最北端ではとの事でした。
(この辺はもっと調べてみたいと思いました)

その城壁の土橋が、後に官道の手直しの材料に使われたのでは?、というお話もありました。

キャンパスの敷地内を通り抜け、大利小あたりに出ました、ここから水城の西門までの官道まではほぼ一直線だったらしく、小学校の前あたりからのこの辺が官道の名残りが残っているのてば、との事でした。
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そこからさらに進んで、水城の西門跡に到着しました。
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案内板です。
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ちょい登ってみたりして。
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おっ、官道も絡めての詳しい案内板がありました。
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分かりやすいですね。
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この官道の想像復元図、今まで説明で聞いて頭の中で描いていたものが絵になった感じで、なるほどという感じで分かりやすいです。
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水城の説明もいろいろ聞きました、元々は朝鮮半島での白村江の敗戦後、唐・新羅軍侵攻の脅威に備えて築かれたもので、結果的にそれは杞憂に終わり、使われることも無かったそうですが、その数百年後に大宰府近くまで迫ってきた元寇の襲来時に役に立ったというのはなかなか面白い話しで、正直、あまり知らなかったので興味深かったです。

そこを過ぎてから、私が太宰府の実家に行く時によく使う裏道を進みます、その途中の公園、住所で言うと太宰府市向佐野の「前田公園」に入って行きました。

なんでだろうと思ったら、なんとこの下に官道の跡が埋まっていると、それを表すために、この写真の右側、フェンス沿いに黒いタイルっぽいものが敷いてありますよね、入ってすぐ(写真では右奥)の所にレンガ色の部分があり、そこが側溝跡との事。
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上の写真の一番手間に反対側の側溝跡、上に砂がかかって見えなかったですけど、それを除けると、レンガ色のタイルとこの案内板が見えてきました。
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要は、側溝から側溝の間が官道だったと、という事で、入口とは反対側も同じようになっていて、そちら側にスタッフの方に立って頂きました、分かりにくいので水色の矢印を付けましたが、この間が官道の道幅だったという事で、この写真では分かりにくいかもですけど、結構な広さの公園なので、こんなに広い道だったのかと実感する感じで、ただの公園と思って何も考えずに通り過ぎていたのに、ちょっとビックリしました、いつも官道跡の横の道を走っていたのかと感動です。
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ここから大宰府政庁跡は結構近いんですけど、古代官道の時代には、ぐるっと回り道させて、正面から朱雀大路を通っていくようになっていたので、もちろんその通りに行きます。

そのまま進んで、ルミエールとかを通り過ぎて高速沿いに進んだ先、第99次調査地にやってきました、住所で言えば筑紫野市杉塚ですね、この辺りも官道だったようです。
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写真では見えませんが、右手には九州自動車道があります、たぶんその建設の際に、発掘調査が行われ、前方後円墳が見つかったとの事ですが、その一部分がスパッと切られていたとの事、その理由は謎だったみたいですが、そのしばらく後にすぐ近くで官道が発掘され、おそらくは官道を建設する際に壊されたのでは、と判明したとの事で、ここでガイドの方から聞いた話で、その前の話しも合わせて、官道の事がなおさら良くわかってきた感じでした。

というのは、官道は、基本的には工事は地元の人が上からの命令でさせられていて、かなり広い直線道路を通す訳ですから、かなり無理強いもされつつで、しかも、地元の人ならその古墳が大事なことは誰よりもわかっている、それなのに泣く泣く壊すことになってしまったのは、それだけ権力が強かった証でもありますね。

広い直線の官道を作ったのは、諸外国に対して国家の力(文化国家である)を見せつける意図で、またそれを作るのは地元の人で、国との主従関係をわからせる意図もあり、それもあって地元の大事な古墳であろうと、それを壊してでも官道を作らせる、という事で、そう考えるとここは象徴的な場所ですね。

そこから少し進んで、杉塚廃寺を訪れました。
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案内板です。
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こちらはまさに奈良時代に建てられたもので、おそらくは官道沿いにあり、その当時に道行く人が目にしていた大きなお寺だったようです。

ここから条坊の南側に沿って、朱雀大路へと向かいます、この辺も官道の名残りではとの事でした、確かに直線道路ですね。
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さらに進んでの住所で言えば筑紫野市塔原東1丁目、防火水槽のフェンスに何やら付いてます。
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「この通りは大宰府二十二條」と、条坊の住所というか通りを教えています、ガイドの方によれば、これは地元の方が付けられているという事で、地元への愛、という事でした。

ここら辺は、官道の側溝が発掘されたらしく、二十二条というのは条坊の南端との事でした。

この辺りも曲がってますが、おそらくは官道だったと。
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その途中の道の電柱に、「旧大宰府右郭一坊」と。
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その下にも「旧大宰府十八條」と。
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これも地元の方によるもので、地元への愛、と言われてました(笑)

朱雀大路の一つ西側の道みたいで、しかし、官道も道幅10mで驚きましたが、朱雀大路はなんと道幅36mと、驚きの広さだったんですね。

そこから進み、旧三号線へ、ブラタモリでも紹介されていたみたいですが、通りに対して斜めに建っている建物があり、それは条坊に沿って建てられていたものとの事でした。

ヤマダ電機の横の細い道を進みますが、もうこの辺は朱雀大路なんでしょうけど、朱雀大路の道の方向見ても建物が建て込んでいて全く面影は無いですけどね。

榎寺方面に向かいますが、その手前、「客館跡」に到着しました、ここは、鴻臚館を発って、大宰府に向かう使節等が、いったんここに泊まって休んで、という場所のようで、大宰府の役人は、午前中とかしか対応しなかったので、今回の私たちのように朝早く出てももう16時過ぎ、もちろん真っ直ぐ向かえばもっと早いでしょうけど、それにしても午前中に着くのは厳しいので、ここで休んで、という事だったようです。
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案内板です。
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ここは昔は、西鉄の二日市車両基地があった場所で、筑紫へそれを移転したのに伴い、たぶん当初は商業施設か何かで開発しようとしていたんだと思いますが、思いもよらぬ大変な物、それもかなり貴重なものが発掘されてしまったので、結果的には、たぶん太宰府市へ譲渡されて今に至っているものだったと思います。

そこから榎寺へ、そこには入らず、ここの歩道に、朱雀大路の側溝を表すものがありました、全然知りませんでした、たぶんここから向こう36mが朱雀大路だったのかと、当時の情景を思い浮かべられそうな感じ。
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そこからかつての朱雀大路を進んで、最後に今ある朱雀大路を通って、大宰府政庁跡にゴールしました!!
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やっぱり疲れましたけど、歩きは割りとゆっくりだし、途中でいろいろ興味深い話が聞けるので、とにかく早く歩く30キロのウォークに比べれば、全然余裕の疲れ具合でした。

ここで、当時の使節と役人になりきっての、ガイドの山村信榮さんの寸劇を堪能しつつ、満足感に浸る感じでした、本当にいろいろな情報をありがとうございました、お疲れ様でした。

そうです、スマホの歩数計、ご覧の通りです。
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スタート時の3747歩を引くと、3万4千歩余りを歩いてましたね、距離もスタート時の2.75kmを引くと、25km余りを歩いてましたね。

時間は17時ちょっと前、休憩も含めてですが、9時間以上歩いた事になりましたね。

そして、すぐ向かいの「御茶司 三十三茶屋」で、スタッフの皆さんに、ぜんざいをふるまって頂きました。
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冷えて疲れた身体に、程よい甘さのぜんざいが美味い事、美味い事、本当に沁みました。

そして、スタッフの皆さん、長い距離を歩くだけでも大変なのに、常に車や自転車等に気遣い、声掛けを頂き、大変だったと思います、本当にお疲れ様でした、ありがとうございました m(_ _)m

しかし、長い距離も歩きましたが、その与えて頂いた情報量も半端ない、もっと勉強しなければとも思いましたが、興味深い話しもたくさんでめちゃくちゃ面白かったです、これは来年もぜひ参加したいと思いました、本当に充実した一日をありがとうございました m(_ _)m

この記事へのコメント

  • 進撃の阪堺

    こんばんは。古代の首都と目される遺跡をめぐるウォーキングお疲れ様でした。
    警固の天神さんやら、高宮の地名の由来やら、西鉄の車両基地の話やら、楽しく拝見いたしました。
    特に西鉄の車両基地の話は、奈良や京都で遺跡が発掘された時の話と通じるものがあり、そちらを思い出してしまいました。
    レポありがとうございました。

    ところでかめさんのご実家のある太宰府とご縁のある話になるかもしれませんが、今月18日は、年賀状の写真を撮るために北野天満宮を参拝しました。
    北野天満宮の拝殿前にも飛梅がありますが、神職さんから聞いた話では、一度太宰府に飛んでいったあと、再び京都に戻ってきたという言い伝えがあるのだそうです。
    この日は御朱印とお守りを拝受し、ベストショット(特大の絵馬)は年賀状にして、昨日差し出しました。
    ちなみに北野天満宮は、太宰府と同一資格を有することから、(太宰府を崇敬する福岡の皆さんと同様)京都の神社の中では私が最も崇敬する神社です。
    2021年12月27日 19:54
  • かめ

    >進撃の阪堺さん
    早速コメント頂き、ありがとうございます。
    進撃の阪堺さんなら、この記事には共感して頂けるかなと思いながら書いてました、コメントが頂けて嬉しいです、改めて、ありがとうございます。
    天神さんは、やはりあちこちにありますね、高宮は住んでいる地域と近いのでなおさら興味深かったです。
    西鉄の車両基地の話しは、奈良や京都でも相通ずる事があったんですね、それはそうでしょうね、遺跡等の本場ですからね(^^;
    年賀状は昨年までは、子どもの写真を載せてましたが、今年はネタもないので、写真無しバージョンで作りつつありますが、そういう写真も良いですね~、しかもネットで検索すると、年賀状にはピッタリの写真ですね、素晴らしいです!
    へぇ~、北野天満宮にも飛梅があるんですね、あの飛梅が戻ってきたという言い伝えも良いですね。
    私が最近サボりまくりの御朱印にお守りもGETして、良かったですね~。
    3年前の京都旅行の際には、八坂神社には行きましたが、北野天満宮へは行ってないので、次回があるか分かんないですけど、京都でいとこ会がある時は、ぜひ行ってみたいと思いました。
    2021年12月29日 01:22

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